テーマ「口論」(2017/05/04)

 

 街の喫茶店で時間を潰していた。彼女から待ち合わせに遅刻する旨の連絡が入っていたからだ。交差点に面した二階の窓際だったので、外の景色がよく見えた。秋口の日暮れどきで、辺りは灰色がかって見えた。加えて、先ほどから雨粒が窓ガラスを叩きはじめていた。準備の良い人ばかりで、あっという間に色とりどりの傘が咲いた。

 

 この喫茶店には初めて来た。古めかしい内装ではあるものの、品の良い調度品が置かれ、清掃は行き届いており、珈琲も美味かった。僕のいる席からは、真向いの壁に飾ってある絵画がよく見えた。晴天下の海が描かれた油絵だ。大してみるところのない絵のように思えたが、しばらく眺めるうちに、「この海は広すぎて、逃げ場がないだろう」と思うようになった。何故このような印象を受けるのか、自分でも不思議だった。

 

 窓の外や絵画をぼんやりと眺めていたところ、彼女から着信が入った。急に仕事が入り、何時に職場を出ることができるかわからない、申し訳ないが今日の約束はキャンセルしてほしい、と早口で言われた。そんなことを言われても僕はもう職場近くの喫茶店にいるし、既に結構待っている。このまま帰るのは癪だから、君の仕事が終わるまで待つつもりだ、どこかで軽く食事でもして帰ろう、と提案した。ほんとうに何時になるかわからないので困る、と彼女は困惑した様子だったが、頑としてはねのけた。何度も似たようなやりとりを続けていくうち、不毛だと判断したのか、彼女は殆ど黙り込むようになった。仕事が終わったら連絡してほしい、と伝えて電話を切った。

 

 こんなことなら本の一冊でも持ってくればよかった、と心の中でひとりごちる。再びぼんやり過ごしていると、不意に眠気が襲ってきた。珈琲に口をつけて目を覚まそうとしたが、気を抜くと瞼が落ちてくる。しばらく攻防を続けたが、いつの間にか瞼は閉じ、僕は空と地平の隙間に入り込んでいた。

 

 北イタリアのスクロヴェーニ礼拝堂はラピスラズリ・ブルーで有名だが、今僕がいる場所はそれどころではなかった。真っ青なうねりが見渡す限り広がり、ありえないほど大きな瑠璃の原石の上に立っているようだった。乳白色の細い帯により天地が分けられ、空は青白磁の底に溜まった釉薬のように深い青みを帯びていた。

 しばらく呆然として立ちすくんでいたが、恐る恐る、足を踏み出した。海面がぐにゃりと揺れ、足裏がぴたりと水面に張り付いた。生まれて初めて二足歩行する赤子のように、たどたどしく歩を進めた。時折、こんもりと海面が盛り上がって、ふわりと僕の身体を浮き上がらせた。かと思うと、足場はすぐに高さを失い、その度に僕はバランスを崩して転倒した。倒れた僕の後方から波がやってきて、視界を覆った。波は太陽と僕の間を遮る透明な壁となったが、海面に叩きつけられる瞬間に飛沫を生んで、真っ白な光を放った。この閃光のような波飛沫に出会うたび、目が眩んで意識が遠のいた。しかし、しばらくすると僕は立ち上がり再び歩き出すのだった。この定期的な運動は延々と繰り返され、そのうちに平衡感覚は失われた。同時に僕の思考は霞がかったようになり、閃光と瑠璃色によって交互に支配された。一連の動作の後に仰向けで倒れていると、喉頭に何か冷たく凝り固まったようなものを感じた。氷のように溶けてなくなってしまわないかと暫く様子を見ていたのだが、だんだん呼吸が苦しくなってきた。耐えきれなくなり、上体を起こして嘔吐した。吐き出したのは淡い緑色の固形物で、何かの鉱石のように思えた。

 僕は立ち上がり、今度は背中を風に押されるようにして歩き出した。海風は陸へ向かうのだから、この判断は正しいはずだった。相変わらず波は足元を不安定にしていたが、バランスを崩して転倒することはなくなった。地平の境にあっても、世界は然るべき秩序のもとで動き続けており、僕はそのリズムに適応したようだった。太陽は圧倒的な熱量で、じりじりと僕を焼き続けた。喉が渇いていたし、後頭部も酷く痛むが、海上に避難場所はなかった。陸を目指し、ひたすら歩いた。プリズムが視界の四方に現れ、瞬いては消えた。いつの間にか僕は駆け出していた。世界は白くなり、地平線も飲み込まれた。上下左右がわからなくなり、そのうち自分が今駆けているのか、泳いでいるのか、漂っているのすらかもわからなくなった。ついには自分の手足がどこにあるのかもわからなくなってしまったが、このままでは海底の暗いところに沈んでしまうと思い、無我夢中で身体を動かし続けた。すると突然、後ろからものすごく大きな波がやってきて、あらゆる全てを覆ってしまった。

 

 瞼を開けたとき、外は真っ暗になっていた。雨は依然として降り続けていたようで、すっかり溶けたネオンが、窓ガラスに張り付いている。冷めきった珈琲を一口啜った。テーブルの上に置かれた携帯の通知ランプが、緑色に点灯している。確認すると、彼女からのメッセージが入っており、仕事が終ったので今からそちらに向かう、という内容だった。随分待ったような気がするのは、うたた寝の間に不可思議な夢を見たからだろう。何の気なしに向かいの壁に目をやった。何もなかった。