「母」(2015/11/28)

 洗濯をするため洗面所に入った女は、開け放してあった小窓から、見知らぬ男が何か黒い鈍器で隣人を殴る瞬間を目撃した。隣人は倒れ、頭部を中心として血だまりを作り始めた。男と目が合った瞬間、女は、瞬時に悟った。男はこの家に押し入るだろう。

 振り返ると、廊下には、あどけなく首をかしげてこちらを見る我が子がいた。この子を守らなければならない。母は強く思った。玄関から入って廊下を右に曲がると、すぐに洗面所がある。すみやかに子供を避難させなければならない。どこに。外に出れば侵入者と鉢合わせるだろう。二階に隠れてやり過ごすしかない。向かい合う我が子の右側に、二階へと続く階段がある。判断に迷う間もなく、近くから、小枝の折れる音がした。母は即座に子を手招きした。子は無邪気な様子で母に歩み寄った。ほぼ同時に、荒々しく玄関の戸の開かれる音がした。母子は硬直した。

 次の瞬間、先ほどの男が現れた。黒いシャツを羽織り、ジーンズを穿いた色黒の男だった。玄関から入ってすぐの正面に、沢山の衣類を入れた籠を置いていた。明日のバザーに出すつもりで用意しておいたものだ。男はまっすぐその籠へ近寄ると、中を物色し始めた。

 すぐ右側に、立ち尽くす母子が居る位置で、男はうず高く積まれた衣類をひっぱりだしたり、広げたりし始めた。ビーズの刺繍の施された、赤や黄色や緑色の衣服が、男の周囲を彩った。女は混乱した。近い距離に居るにも関わらず、依然として、男がこちらに気付いていない様子だったからだ。明らかに盲目ではないのに。それに、何故、雑然と積まれた安物の衣類に、関心を示しているのだろうか。ただちに室内を見て回り、住人や金品の有無を確認するのが自然であろう。そもそも、この男が我が家に押し入ったのは、つい先ほど、自分と目が合ったからだ。今、男は籠を漁っているが、底まで調べ終えた暁には、必ず目線はかち合うだろう。

 先手を打つべきかもしれない。穏やかに声をかけよう。それらの衣類は元々要らないものだから、すべて持っていってもらって構わない。そう伝えれば、穏便に事が進むかもしれない。女は、子供に目配せで合図をした。子供は、速やかに、洗面所の戸棚の陰に隠れた。前方に目線を戻す。男は相変わらず衣類を物色していた。

 

「あの」

 

 意を決し、女は声をかけた。その声の、か細く、震えていることに、自分で驚いた。男は、はっとした様子で、女に顔を向けた。再び目が合った。女は、男の瞳の、驚くほど黒いことに初めて気が付いた。白目は、黄色く濁っていた。次の瞬間、男は立ち上がり、右手を後ろにやった。ジーンズの尻ポケットに差し込まれた銃器に手をまわしているのだと、女は確信した。すぐにその予想は正答となった。前に戻された男の手には、黒光りした拳銃が握られていた。

 その黒い拳銃を目にした瞬間、女の時間は、一気に速度を落としはじめた。男は女に銃口を向けたが、その動作の遅さといったら、信じられないほどだった。長い時間待った末、ついに女は銃口を見た。黒い穴は、まっすぐ自分に向かっていた。時は止まっているのに近かったため、女は長い時間、銃口を見つめていた。このまま、永遠に時を止めていることすら可能だった。しかし、やるべきことは既に決まっていたので、女は時を動かさねばならなかった。男が洗面所に足を踏み入れないようにすることが、女の使命だった。

 

「やめてください」

 

左足を踏み出す、という指令を出したはずなのに、脚はほとんど動かなかった。軽く痙攣しただけだった。男は黙ったまま女を見つめ、全く表情を変えなかった。女は、今度こそ、大きく右足を踏み出した。どうか、この男が、息子を見つけませんように。

 

 次の瞬間、視界が真っ暗になって、目が覚めた。いつものベッドの上だった。死は、夢のなかでさえ、体験させてもらえなかった。2015年11月28日の夢。